「自由」の考察

「自由」とは何かについて色々な側面から考察していきます。

なぜルフィーは海王類の声を聞くことができるのか 考察2

前回、数学の難問を解くためには、論理的思考だけでは不十分だという話をしました。では他に何が必要なのか。その手がかりとして、日本の数学者岡潔を取り上げたいと思います。

岡は多変数解析函数論という分野で、三大難問を全て解いた日本を代表する数学者です。研究に入る前に「芭蕉の俳諧を全て調べなければならない」と悟り、一年かけて松尾芭蕉と弟子の俳句を徹底的に研究したそうです。一見、数学と俳諧は全く関係ないように思いますが、実は数学の難問を解くためには欠かせないものです。岡の著書には「情緒と創造」「情緒と日本人」という「情緒」という言葉が多く登場します。松尾芭蕉を研究したのも情緒を学ぶためだと考えられます。

では、情緒はなぜ大切なのか。

同じく数学者の藤原正彦氏の著書の中にこのようなことが書いてあります。

「出発点の仮説を選択する際、決め手となるのがまさに情緒です」

どんな論理的な思考でも、その最初の部分は、その人が経験してきたことや感じ方など全人格から現れてくるものです。あるものを見てそれをどう感じるかは、人ぞれぞれの情緒が影響しています。

 松尾芭蕉の有名な句に「古池や 蛙飛び込む 水の音」というものがあります。日本人であれば、その場面を想像して風情を感じることができますが、外国では、ただ池に蛙が飛び込むという現象しか捉えることができないそうです。同じものでも感じ方に大きな違いが生じます。また、日本人は虫の音を左脳で聴くのに対して、外国人は右脳で聴くという研究があります。左脳は言語野が存在しており、言語=意味のある音として認識します。一方、外国では雑音=意味のない音と認識します。

ワンピースでは、海王類の声をルフィーは聴くことができましたが、ルフィー以外の人物はその声を聴くことができませんでした。そして、ロジャーも海王類の声を聴くことができます。また、和の国の光月おでんも万物の声を聞くことができ、これはまさに日本人が虫の声を意味ある音(言葉)と認識できることと似たものではないでしょうか。そこには「情緒」が深く関わっており日本人特有のものです。

現在社会は、効率ばかり追い求め、情緒のような一見役に立たないようなものを排除する傾向があります。それは、勝つためにはどんなことをしてもいいという考え方と似ています。ルフィーはそういう考え方はしていません。仲間を大切にすることや弱いものを傷つけてはいけないなど一見勝つためには不要なものを大切にしています。そこには情緒が存在し、それが最終的に重要になってくるのです。

エジソンの「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」という名言がありますが、この「ひらめき」とは「情緒」のことではないでしょうか。たとえ99%のところまで到達できても最後の1%がなければ発明には至りません。まさに、四皇など強者がラフテルにたどり着けないのはこの1%の部分が足りないのでしょう。パズルでも100個のうち99個が完成していても、最後の1個を当てはめないと完成しないように、一番大切な最後の1ピースをルフィーはすでに持っているのだと思います。

ワンピースとフェルマーの最終定理 考察1

日本を代表する人気マンガのワンピース。物語も後半に差し掛かり、今後の展開が気になるところです。ルフィーは「この海で一番自由な奴が海賊王だ」と言っており、「自由」が重要なテーマになると考えています。

 

ワンピースの世界は、レッドラインとグランドラインにより4つの海に分断されており、それらの海を行き来することは困難です。海賊に支配されているという不自由さに加えて、地理的な状況を見ても現在のワンピースの世界は不自由な状況です。最終話では、おそらくそれらの4つの海が一つになり、ワンピース(1つのピース)になり、ピース(平和)が訪れるのでしょう。

 

その鍵となるのがグランドラインの最終地点であるラフテルですが、海賊王のゴール・D・ロジャー以外未だ到達することができていません。ロジャーがラフテルを発見してから何年も経っていますが、その間、四皇として君臨してきた海賊たちも到達することができていません。

もちろんマンガなので、ロジャーの次にラフテルに到達するのは主人公のルフィーでないと話が盛り上がらないのでしょうが、なぜ四皇などの他の海賊がラフテルに到達できずワンピースを手にできないのか考えていきたいと思います。

 

ラフテルに到達するには、4つのロードポーネグリフを全て解読する必要があります。では、その4つのロードポーネグリフを解読すれば、ラフテルにたどり着くことができるのでしょうか?おそらく、そんな単純なことではないでしょう。

 

ワンピースを読んでいて感じたことは、フェルマーの最終定理が証明された過程に似ているということです。

フェルマーの最終定理は、数学者フェルマーが「私はこの定理について真に驚くべき証明を発見したが、ここに記するには、余白がせますぎる」という言葉を残して、この世を去ってしまい、その後300年以上証明されなかった難問の一つです。

ロジャーが最後に残した「探せ、この世の全てをそこに置いてきた」という言葉と重なるところがあります。

 

フェルマーの最終定理に世界中の天才が幾度もその難問に挑戦するも皆証明することはできませんでした。そして、月日が流れ、アンドリュー・ワイルズがその難問をついに証明したのです。フェルマーとワイルズの関係は、ロジャーとルフィーの関係に似ています。(ちなみにモンキー・D・ルフィ、ゴール・D・ロジャーともにミドルネームがDですが、フェルマーもピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat)とDの名が付いています)

 

では、ワイルズは多くの数学者が挫折したその難問をどのように攻略したのでしょうか。そこには様々な理論が関わっています。モジュラー形式、モーデル予想、谷村―志村予想、フライ・セール予想など。それらの理論をつなぎ合わせることでフェルマーの最終定理にたどり着きました。グランドラインの島々を一つずつ辿って最終地点であるラフテルに到達するという過程と似ています。しかも、最初はそれぞれ違う島から出発しても最終的に辿り着くところが一緒だというところは、数学の証明の過程は幾通りも存在するところに似ています。

 

数学の難問を証明するためには、論理的な思考が不可欠です。ワンピースでいうとより強い力が必要です。しかし、それだけでは証明できないからこそ多くの数学者を悩ませたのです。

では、他に何が必要なのでしょうか?

 

それについては次回お話したいと思います。

人間と動物の違い

人間と動物の違いは何でしょうか?

 

 

例えば、お腹が空いている時の対応を野生のライオンと人間で比較してみます。

ライオンの場合、目の前に獲物が現れた時、おそらくその獲物にすぐ襲いかかります。

一方、人間はお腹が空いてる時に、コンビニに置いてあるおにぎりや弁当にすぐ飛びついて食べません。一般的には、食べたいものをレジに持って行き、お金を支払ってから食べます。

なぜそのような違いが生じるのでしょうか。

 

もし、お金を払わずに食べてしまったら、警察に捕まってしまうとか、周りから白い目で見られるなど今後起こるであろう出来事を想像します。未来を気にせず現時点だけで判断するのであれば、すぐにおにぎりを食べる方が得策です。しかし、未来を考えるとお金を払わず食べることはデメリットの方が大きく、そのためいくらお腹が空いていても、レジでお金を払うという行為を人間は行うのです。

動物は視覚・聴覚などの5感による現在の情報を頼りに行動を起こしますが、人間はそれに加えて未来や過去の情報を参考にして行動することができます。

では、動物園や水族館で芸ができる動物はどうでしょうか。調教された動物は、餌を食べることとは直接関係のない行動をして報酬を手にします。それは、芸をすれば餌を食べれるという過程を何度も経験したことで獲得したものです。(心理学では「オペラント条件づけ」と言います)

野生動物と比べるとすぐに餌に飛びつかずに待つことができるので、人間に近い行動をしていますが、これは何度も経験しないと身につけられません。人間がもしその動物と同じ思考しか出来ないとすると、無銭飲食した時は警察に捕まりひどい目に合う、お金を払うと何も起こらず食べれるという経験を繰り返すことで、食べたいものはお金を払わないといけないと学習できます。

しかし、多くの人間は無銭飲食して罰を受けたことがないにも関わらず、お金を払って食事できます。それは、経験していないことも想像することで実際に行動移さなくてもいけないことだと学習できるのです。

 

まとめると過去・現在・未来の3軸のうち、野生動物は現在の1軸、調教された動物は過去・現在の2軸、人間は過去・現在・未来の3軸をもとに思考すると考えられます。

 

以前、三次元アリについて記事を書きましたが、次元は上がることで自由度が増します。思考にも同じことが言えて、過去・現在・未来の3つの次元があることで思考できる範囲が広がり、より高度な思考が可能です。

私たちは、空を飛ぶことも、宇宙に行くことも、未来や過去にタイムスリップすることも思考の中では容易に行えます。その想像力が科学を発展させ、人間の繁栄につながったのです。

 

トロッコ問題2 〜優先順位の決め方〜

前回、トロッコ問題について考察してきました。

一つの考え方として、自ら選択することを放棄して運命に身を任せるという回答を示しました。しかし、実際の生活の中では、自ら選択しなければならない場面もあり、その場合どうすればいいのでしょうか。

前回も紹介したトロッコ問題の別バージョンである歩道橋問題を通して考えていきたいと思います。

歩道橋問題とは以下のものです。

 

「あなたは路面電車を見下ろす歩道橋の上に立っています。歩道橋に近づく電車がコントロールが効かなくなっていることがわかり、その線路の先を見ると5人の作業員が線路上に立っています。隣に太った男の人がいて、その人をその歩道橋から突き落とすことで電車を止めることができ、5人の命を助けることができますが、太った男は死んでしまいます。あなたならどうしますか」

 

ほとんどの人が5人の作業員か1人の太った男の2択で考えたと思いますが、もう一つ選択肢が存在します。それは、自分自身が飛び降りて5人の命を助けるというものです(この場合、自分も太っていて電車を止めることが可能と想定して下さい)。

この3択の場合、自分を選択する人は少ないでしょう。それは自分の命は他人の命よりも重たいからです。

 

井上陽水の「傘がない」という曲の中にこのような歌詞があります。

「都会では自殺する若者が増えている(中略)だけども問題は今日の雨 傘がない」

 

自殺は命に関わるとても重要な問題ですが、このような極端な2択でも曲中の人物は傘の心配をしています。

この考え方は間違っているのでしょうか。

私は、自分に関係のない重大な問題よりも自分に関係のある些細な問題の方が重要だと考えます。このような考え方は他人を思いやれない自己中心的な考え方だと非難されるかもしれません。しかし、この世の中には自殺以外にも様々な問題が存在します。その問題1つ1つに対して対処することは不可能です。もしも分身の術を使って自分を何人も作ることができれば、自殺問題について取り組むこともできるかもしれませんが、現実は私は1人しか存在せずできることは限られます。そうであるならば、自分の問題を優先して取り組みます。

しかし、状況が変われば優先順位は変化します。今話したのは赤の他人の自殺であって家族や友人だと話は変わります。自分の家族や友人の問題であれば、自分に関わる問題であるため、傘よりも自殺問題の方が優先順位が上がります。

何を優先させるかについては以下の式のイメージです。

 

自分との関係性× 重要度=優先順位

 

重要度がいくら大きくても関係性が弱いと値はそれほど大きくなりません。自分に関係があって尚且つその中で重要性が高いものが優先度が高いのです。

 

この式を参考に先ほどの歩道橋問題を考えていきましょう。

自分との関係性については、『自分>太った男=5人の作業員』となります。

重要度については、客観的な重要度と主観的な重要度で変わっていきます。客観的な重要度でみると、1人が死ぬことと5人が死ぬのでは、5人が死ぬことの方が重要度が大きいため、 『5人の作業員>自分=太った男』となります。

 

主観的な重要度を考えると

『自分>5人の作業員>太った男』または、『自分>太った男>5人の作業員』となります。

この時点で、自分自身は、自分との関係性、重要度ともに3つの中で一番高いため、自分が死ぬという選択肢はなくなります。

 

問題は、主観的な重要度における5人の作業員と太った男の順位付けです。この順位付けの結果でどちらを助けるのかが変わります。主観的な重要度が同格であれば、客観的な重要度の高い5人の作業員を助けることになります。

ここで考えなければならないことは自分自身のことです。

すでに自分は選択肢から排除されているため考える必要がないように思いますが、この事故後のことを考えた場合、自分の状況に大きな違いが出てきます。

もし、太った男を落とした場合、自分が太った男の死に関与したため、罪を犯したことになります。一方、ただ5人の作業員が引かれるところを見るだけなら無罪です。

自分の今後の人生を考えた場合、リスクが小さいのは、傍観者として振る舞うことです。

そのため、主観的な重要度は『太った男>5人の作業員』となります。客観的な重要度と逆の結果となりましたが、客観と主観を比べた場合、自分により重要なのは主観であるため主観の結果を採用します。

故に『自分>太った男>5人の作業員』という順位となり、5人が死ぬことを選択します。

 

長々と書いてきましたが、結局のところ自分にとって得か損かが重要だということです。自分が死ぬか死なないかの表面的な損得だけではなく、自分の行為が周りからどう見られるのかという社会的な評価も考慮に入れて選択する必要があります。

 

トロッコ問題

思考実験として有名なトロッコ問題について考えていきたいと思います。

トロッコ問題とは以下のようなものです。

 

「あなたは路面電車の運転手です。線路の前方に5人の作業員が線路上に立っています。電車を止めようとするがブレーキが効かず止まることができません。右側に曲がれる別の線路があり、そちらに方向を変えることは可能ですが、そこにも1人の作業員が線路に立っています。あなたならどちらを選択するか」

 

数年前にNHKのハーバード白熱教室『これから「正義」の話をしよう』でマイケル・サンデル氏が出した問題として有名です。

この問題に対して明確な回答はなく、様々な議論がなされています。

一般的な回答は最大多数の最大幸福という功利主義的な考え方に基づいて、5人と1人なら5人分の幸福を選び、1人の作業員の方に方向を変えるという人数を基準にした考え方です。

しかし、この問題の難しいところは、状況が変わると選択が変化してしまうところにあります。

以下の場合はどうでしょうか。

 

「あなたは路面電車を見下ろす歩道橋の上に立っています。歩道橋に近づく電車がコントロールが効かなくなっていることがわかり、その線路の先を見ると5人の作業員が線路上に立っています。隣に太った男の人がいて、その人をその歩道橋から突き落とすことで電車を止めることができ、5人の命を助けることができますが、太った男は死んでしまいます。あなたならどうしますか」

 

この状況になると1人の命を守る方を選択する人が多いのではないでしょうか。しかし、最大多数の最大幸福を目指すのであれば、5人の命を守るために太った男を突き落とす必要があります。

状況が変われば様々な考え方が存在し正しい選択は困難になります。

岡本裕一朗著の『世界を知るための哲学的思考実験』でトロッコ問題の様々な状況や考察が書かれているので、興味のある方は読んでみて下さい。

 

ここでは、様々ある考え方の中から1つを紹介したいと思います。

 

元々、このトロッコ問題は人工妊娠中絶という母親を守るか赤ちゃんを守るかという究極の2択を迫られる場面が登場したことで考案されたものです。医療技術の向上により人の生死を人の手で選択できるようになりました。それ以前はこのような選択肢は存在せず運命に任せるしかありませんでした。

今までどちらを選ぶのかを考えてきましたが、その選択肢自体を放棄してしまえば、この問題は問題として成り立たなくなります。トロッコ問題に当てはめてみると、選択肢を放棄して何もせず運命に身を任せるとなります。

 

学校教育では、テストに提示されている問題に対して何が正解なのか考え、問題自体を疑うことはありませんでした。しかし現実の問題では、問題自体がそもそも正しいとは限らず疑う必要もあります。

今回の場合、5人か1人かが問題なのではなく、人の命を人が選択していいのかについて考えることが先ではないでしょうか。

 

世界を知るための哲学的思考実験

世界を知るための哲学的思考実験

 

 

 

 

三次元アリと自由

漫画「宇宙兄弟」の中で”3次元アリ”という考え方が出てきます。

1次元アリは前後にしか進むことしかできません。もし、その線上に石が置かれていたらそのアリはそれ以上前に進むことはできません。

前進するためには横に移動して石を避けることで解決できます。これが2次元アリです。

次に目の前に壁が立ちはだかります。すると2次元アリは身動きできなくなります。どうすれば前進できるのかというと壁を登ればいいのです。これが3次元アリです。

次元が大きくなるについれて自由度が大きくなり、一見困難だと思われることも意外と簡単に解決できます。

これを私たちの生活で考えてみると、1つの考え方にこだわっているとその考え方で解決困難なことが生じた時それ以上前に進めなくなってしまいます。前進するために違う考え方を用いる必要があります。

以前紹介した”Anything gose(何でも構わない)”という精神で物事を捉えてみると思った以上にうまくいくかもしれません。

 

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細田守監督と深海誠監督の「選択」の違い

日本アニメ界の巨匠である細田守監督と深海誠監督の選択に対する表現の違いについて紹介したいと思います。あくまで私の勝手な解釈であることを前提に読んで下さい。

両監督の選択に対する違いを見ていく上で、似ているシーンで比較するとわかりやすいと思います。ここでは、「サマーウォーズ」と「君の名は」の終盤のシーンで考えていきたいと思います。

 

細田監督の「サマーウォーズ」では、落下してくる人工衛星に対して、人工衛星の落下地点を変更することで命を守りました。

一方で、深海監督の「君の名は」では、隕石が街に落下しますが、その落下地点から避難することで命を守りました。

 

一見、人工衛星と隕石の違い以外同じように感じるかもしれませんが、選択の視点から見ると大きく異なります。

「サマーウォーズ」では、外的な状況を変えて自らの運命を変えようとしていますが、「君の名は」では、自分自身の行動のみ変えて、隕石が街に落ちるという外的状況は変えていません。どの選択肢が正解なのかを描いているのが細田監督の作品で、運命は変えられないけど、それに対してどのように振る舞うのかを描いているのかが深海監督の作品です。

実際に細田守監督の作品には、2択を表現するようなシーンが多く存在しています。一方、深海誠監督作品では、電車がよく登場していますが、それは電車は線路の上しか走ることができず、決められた路線(運命)でどう振る舞うのかを表現しているのではないかと思います。

私は、深海誠監督の選択の考え方に共感しています。運命は変えられないかもしれないけど、その運命に対してどのように振る舞うのかは自分自身の考え方次第で変えることができるからです。

 

最後に、今年公開された新海誠監督作品の「天気の子」の主題歌である「グランドエスケープ」の歌詞の一部を紹介してこのブログを締めたいと思います。

"夢に僕らの帆を張って、来るべき日のために夜を越え、いざ期待だけ満タンであとはどうにかなるさと肩を組んだ"